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 将棋を語るのは難しい

 将棋というのは本当に、書籍やインターネットといったものによる情報化が容易なゲームだと思います(知的ボードゲーム全般に言えるかもしれませんが)。たとえばサッカーの雑誌の中で、一つのプレーを「中村のフリーキックが美しい弧を描いてゴールの右隅に突き刺さった」と表現したとします。さて、はたしてそれでそのプレーを100%完璧に読者に伝えることができるかというと、「NO」ですよね。おそらく10%も伝わらないでしょう。まあサッカーに限らずスポーツは体を使ったフィジカルな競技なんで文章で表現しろというのが土台無理な話ではありますけど。

 その点、これが将棋となると、「7六歩、3四歩、6六歩・・・」というように手順を羅列するだけで、とりあえず指し手そのものはすべて完璧に伝えることができます。これはすごいことで、おかげで将棋は江戸時代のものでさえいまだに情報としてはなんら劣化することはありません。過去の大山−升田戦だって、およそ100手分程度の符号さえあれば今でも手順は完璧に蘇らせることができるわけで。IT革命のおかげで今ではインターネットを使って遠く離れた場所、時代で指された将棋だって誰でも知ることができる時代になりました。

 ただ、将棋特有の問題はこれからです。たとえば大山−升田、あるいは羽生−佐藤といった歴史に残る大一番の棋譜を私のような一般のファンが並べたとして、はたしてそれを完全に理解できるかといえばこれもまた答えは「NO」でしょう。将棋には変化というものがあって、プロの指す将棋というものは実際に指された手の何倍もの(おそらく10倍では利かないと思う)変化の上に成立しています。しかし、それらを棋譜を並べただけで全て理解するのは至難、不可能といってもいいでしょう。プロのトップクラスに位置する渡辺明竜王でも「解説のついていない棋譜は見てもあまり意味がない」というようなことを言っていました(多少のリップサービスも感じられますけど)。

 そういうわけで、誰かが指した棋譜を誰かに見てもらう、価値のあるものにするためには常に解説というものが必要となります。対象となる棋譜は自分の指した将棋の場合と他人が指した将棋の場合があるわけですが、どちらにせよこれがまあ、ほんと〜〜に難しい。私の場合はこのHPで自戦記を掲載させてもらってます。新聞などに載る観戦記などと違って棋譜再生アプレットというものを使ってパソコン上で盤が動きながらコメントしたい手を選んでそれに解説を付け加えるといった形式でつくってます。この方法で自戦記を書くのはおそらく新聞の観戦記なんかよりはるかに簡単だと思います。というのも、

 1.コメント形式なので文章力があまり必要ない

 2.自戦記なので対局者の頭の中を推測する必要がない

 といった理由からなのですが、それでも書いていて非常に悩むことがあります。一番悩むのは「指し手をどこまで説明するか」という点。

 解説の一番の目的は対局者の頭の中だけで処理されている指された手の意味や数多くの変化をわかりやすく説明することなので、指し手の説明は欠かせません。しかし、多くの人に見てもらう以上その解説のレベルをどこにあわせるかというのが大きな問題になります。初級者向けに基本的な変化だけでは上級者の人は退屈ですし、難解な勝負を説明するとき決着がついた理由を完全に説明できないことがあります。しかし簡単な変化を無視すると、今度は初心者の人にはまるで理解できない観戦記、自戦記が完成します。プロの棋士が自戦記を書くと後者のようなものになることが多いみたいです。かといって全ての人を納得させるために変化を全部説明すると指し手の説明だけのつまらない文章になりそうだし・・・

 とまあ、これらのことを考えて、結局答えが出ないまま何も考えずにコメントを書きなぐって私の自戦記は完成されるわけで(汗)。こうやって自分の考えをまとめてみると、私の自戦記は基本的な手の説明が少しおろそかになっているような気がしてきました。これからはもうすこし丁寧に簡単な手の解説もしていこうかな、と思っています。

 あと、自戦記というのは自分より強い人に対しての解説は書けません。そういう人にとっては私の棋譜と解説というのはあまり見ておもしろいものではないでしょう。いやはや、本当に将棋を語るというのは難しいです。

 

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